慶證寺について
永録年(1558-1570)中頃、慶證寺は大坂石山本願寺のそば(西南)に創建され、本願寺第11代宗主 顕如上人(1543-1592)によって、慶證寺の境内(庭前)に「掬月閣」という高き亭が作られました。その亭の格好は四方正面にして風流そのもので、言語を絶する美しさであったらしく、多くの人々に「掬月の亭、掬月の亭」と賞美され、そこからの眺めは「浪花第一の壮観なり」と讃えられていました。俳人である宝井其角(1661-1707)や与謝蕪村(1716-1784)ら数人が、この慶證寺に登って、四方の風景を詠んだ句と歌も残されています(「見わたせば雲の上なる帆かけ船」其角、「名月や夜る見る山の昼こころ」蕪村ほか)。「掬月」のいわれは「掬水月在手 弄花香満衣(水を掬すれば月、手に在り 花を弄すれば香、衣に満つ)」(于良史「春山夜月」)の一節にあるとされています。
「当寺代々之祥月留」(慶證寺蔵)に「一 玄西法師 寛永七年(中略) 攝州東成郡生玉社傍ニ建 当寺高祖 信楽院顕如上人御免之寺号御裏焼失 木佛者御残候事」と記載されているため、第1世 玄西法師(1630寂)は顕如上人より寺号を賜り、慶證寺は顕如上人が建立されたとも伝えられています。当時の木佛が現在も慶證寺の御本尊 阿弥陀如来像として安置されているとうかがえます。
天正19年(1591)、本願寺が寺基を京都に移すに伴い、慶證寺も京都六条堀川に移転して、慶長元年(1596)12月、第1世 玄西法師は再び慶證寺を開基したとされている(『京都府地誌』等)。
また、「祥月留」に「三 玄惠法師 元禄十七年(中略) 役僧始御帳内ニ而 慶證寺開基 木佛寺号蒙御免」とあり、『大谷本願寺通紀』には「元禄六年名位並開創年時(中略)慶證寺 玄慧 承応二年」と記されていることから、承応2年(1653)、第3世 玄慧(玄惠)法師(1628-1704)の代に、慶證寺は改めて京都本願寺(西本願寺)内に開創され、木佛と寺号を与えられたことが分かる。この木佛が現在の御本尊右脇の阿弥陀如来像ではないかと考えられている。
明治24年(1891)12月、慶證寺は現在地に移ることとなって、遷佛法要の機縁に、近江の連枝寺院の福田寺(長沢御坊)住職 息長澤祐師より第11世 掬月政臣師(1860-1933)に「掬水月在手」の額が恵贈され、それが今も慶證寺の座敷に掲げられている。
慶證寺は代々、本願寺の堂職であり、御堂衆や輪番等の要職を務めたが、中でも、第7世 玄智法師(1734-1794)が「身、堂職に居して法門場に遊び、学者を益し内外に功ある今に於て其右に出るものなし」(『清流紀談』)などと讃せられるごとく、その激務の傍ら研鑽を積んで、「浄土真宗の百科事典」といわれる『考信録』、「真宗史伝の権威」なる『大谷本願寺通紀』、「本典註釈中の白眉」と称される『本典光融録』等々、数多くの著述を残し、御堂衆・宗史家・宗学者として、それぞれに古今比類なき業績を挙げたことは周知のとおりである。
ごあいさつ
慶證寺は、創建当初から真の仏教・浄土真宗をお伝えしてきました。
そのご仏縁によって、現代にも法(真理)を戴くことができ、慶證寺にご縁のある方々が、実際に真の仏教・浄土真宗を体験されています。
このお恵みを一人でも多くの方々と分かち合いたいと思っておりますので、お気軽にご相談ください。
寺院の特色
出張葬儀 | 寺院葬 | 永代供養 | 墓地 |
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祈祷 | 樹木葬 | ペット供養 | 水子供養 |
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専用会館 | 駐車場 | バリアフリー | その他 |
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寺院概要
住所 | 〒600-8468 京都府京都市下京区西中筋通六条下る住吉町37 |
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アクセス | 【公共機関の場合】 地下鉄烏丸線「五条」駅から徒歩8分 JR「京都」駅から徒歩20分 阪急京都線「大宮」駅から徒歩20分 |
電話番号 | 075-351-0772 |