上関大師 遍照寺(へんじょうじ)

遍照寺について

遍照寺は地域で最も古い由緒を持つと言われる日美宮(竈八幡宮の前身)の神宮寺であった千坊寺を起源とする寺院です。
弘法大師が彫られた仏像が上関町に数点残されている事からも、千坊寺はおそらく平安時代初期には存在していた真言宗の古寺と考えられています。
遍照寺にて発見された雨宝童子(平安時代~室町期作)軸に石見銀山の銀を使ったであろう銀襴を使用している事からも、大内公に重用された寺院であったことも覗えます。
しかしながら毛利公が治められた世に曹洞宗に改宗。寺名も明関寺と改められました。
その際、千坊寺に祀られていた弘法大師尊像を現在地に遷座。
紫雲閣(紫雲天)として爾来四百数十年の間、天保期に一旦解除の法難に遭いながらも法燈を守り現在まで上関のお大師さんとして篤く信仰されてきました。
しかし、残念ながら本寺である明関寺は明治の神仏分離令の煽りを受け阿月岩休寺に合併廃寺。
弘法大師由来の仏像も散逸してしまいました。
明治十八年より間俊城和尚が入山され、お大師様の仏光を遠く朝鮮・満州にまで伝え、中興の祖として紫雲閣の復興に従事。
明治三十五年(一九〇三)に現在の本堂を建立。
昭和十四年(一九三九)高野山大師教会上関支部を設置。昭和二十二年(一九四七)真言宗御室派「紫雲山遍照寺」として宗教法人化、初代住職として就任されました。
その後歴代住職、信徒により地域のみならず世界平和、即身成仏を実現する道場として守り続けてこられました。 平成三十年には、明治の廃仏毀釈により破却されて以来、百五十年ぶりに愛染明王尊を上関の地に迎え、慈悲・智慧の光を益々発揮しております。

ごあいさつ

遍照寺住職の福嶋弘祐です。
私が僧侶として1番大事にしていることは、私や遍照寺と縁ある方々が、「生まれて来て良かった!」「自分のことが大好きだ!」と自分自身に対して、心から思って頂けるようになって欲しい!と言うことです。
それは、例えば葬儀と言う仏事においてもそうです。親しい方との別れと言う悲しみの中で、いかに故人が悔いの残る亡くなられ方だったとしても、またご遺族がたとえ沢山の思い残しがあったとしても、故人に想いを向けて真心で接し、ご遺族の方のお話しをしっかりとお聴きしながら、全力で供養を勤めさせて頂くことで、いずれ皆さまが「後悔も悲しみも、全てが必要な事だったのだ」と気付き、「その故人の人生そのものが、本当に素晴らしいものだったのだ」と故人にも皆さまにも、必ず思って貰えるような仏事を、私は皆さまに提供していきたいと思っています。
悲しみ苦しみと言うものは、生きていく上で必ず出逢うものであり、逃れることは出来ないものです。その苦しみの中で生きていく私たちが、本当の安らかさを手に入れるためには、
“苦しみ(が)なくなるのではなく、苦しみ(で)なくなる”
ことが必要です。
それは、心ある本当の仏事に触れることで、必ず出来ます。
私は、高野山大学を卒業して高野山専修学院と言う修行道場で修行を修め、そのまま道場の監督として2年間勤めました。その後紆余曲折がありまして、生きる事への挫折を経験…。しばらくして4年間程、郵便局に配達員として勤めたこともありました。雨の日も風の日も、ドロドロになりながらも必死に働きました。
そうしていた時に、遍照寺の前住職にお声がけ頂き、今に至ります。しかしながら、その苦しみの期間のお陰で、お仕事でお金を頂くと言うことが、いかに大変な事なのか!と言うことも身に染みて感じて参りました。だからこそ、お布施の多少に関わらず、縁があった全ての方のために、真剣に拝んでいきたいと心から思えるのです。
遍照寺では、葬儀、法事、護摩供、写経会、悩み相談、ご祈祷、瞑想指導、絵手紙、健康体操、その他多くの仏事を通じて、皆さまに喜んで頂けるようにしています。どうぞ、お気軽にお問い合わせください!
また遍照寺にも、お気軽に足をお運びくださいませ。海がとても綺麗ですよ(*^^*)
遍照寺住職 福嶋弘祐

寺院の特色
出張葬儀 寺院葬 永代供養 墓地
祈祷 樹木葬 ペット供養 水子供養
専用会館 駐車場 バリアフリー その他
寺院概要
住所 〒742-1402 山口県熊毛郡上関町長島350
アクセス 【公共機関の場合】
天神前バス停 から徒歩2分
渡船場前バス停 から徒歩4分
上関バス停 から徒歩5分
電話番号 050-1865-6670
アクセスマップ

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